育種家山本二郎のあゆみ
美しいデンドロビュームで世界中の窓辺を飾りたい
それはたった一棟の小さな温室からのスタートでした。 戦後まもない頃、やがて西欧風の生活様式が一般化し、日本でも家庭に花が取り入れられる時代がきっと来ると予感した山本二郎(当時24歳)は洋ランの一種デンドロビューム栽培へ本格的に着手したのです。
営利作物として品種改良を志し、いずれくるであろう大量消費時代を見据え地道な研究と多大な努力の末、色彩の優れたデンドロビュームとして多くの品種改良に成功し大量生産が可能な組織培養法の確立、最適地での国際分業体制での生産により世界各国への安価に供給可能にする等、洋ラン業界を常にリードし続けました。
その改良された品種の優秀さは世界の市場にも認められ、「Yamamoto Type」「Yamamoto Dendrobium」という名称で、ひとつの独立したランのグループであるかのごとく呼ばれるまでに至りました。 今や欧米諸国で栽培されている品種の80パーセントが山本二郎により作出された新品種で占められています。
山本二郎が現在までに交配した数は既に4000組を超え、作出された新品種の多くが世界中の園芸ファンを魅了している。すべてのランの品種が正式に登録される英国王室園芸協会(RHS)のサンダーズリストには600品種を超えるJ.Yamamoto(山本二郎)の名が記されており、100年以上にわたるノビルタイプデンドロビュームの育種改良の歴史の後半は山本二郎によって築かれて来たといっても過言ではなく、これは世界に誇れる偉大な業績である。
自らの作出したデンドロビュームで「世界中の窓辺を飾りたい」という彼の願いは現実のものとなったのです。
デンドロビュームとの出会い 苦難続きのデンドロビューム栽培 品種改良の長い道のり 洋ランの大衆化へ向けて 育種家としてのあくなき情熱 | |
デンドロビュームとの出会い
試行錯誤の日々 岡山市浜野の農家に8人兄弟の末っ子として生まれた山本二郎は旧制中学の商業科で学び、将来は銀行員を目指していたが、跡継ぎの兄が沖縄で戦死したため、家業の農業を継ぐこととなった。 運命の出会い 1951年(昭和26年) やがて運命の出会いが訪れました。ある日、愛読雑誌であった「リーダーズダイジェスト」の表紙に載った、少女のもつ花の美しさに、天の啓示とも言うべき大変な衝撃を受けたのです。表紙説明にあった「花の女王カトレア」から、洋らんという存在を知ります。「暮らしが豊になれば人々は心に潤いを与える花を求める。それはこんな花に違いない。」そう胸に響くものがあったと言います。 |
苦難続きのデンドロビューム栽培
小さな温室からのスタート 将来の目標を洋ランデンドロビュームの栽培に絞った山本二郎は1952年(昭和27年)、24歳で山本デンドロビューム園を設立します。わずか4坪の木造の小さな温室からのスタートでした。 |
父の反対と業界からの反発 生計を立てることで精一杯のこの頃、温室にこもっては洋ラン栽培に没頭する山本二郎を彼の父は快く思っていませんでした。洋ラン、ましてデンドロビュームという名前すら知られていないこの時代、小さな温室で何やら栽培している彼の町内での評判も良いものではありませんでした。 業を煮やした父親に幾度となく温室を壊されそうになり、その都度母親にとりなしてもらう日々が続きました。 |
品種改良の長い道のり
4倍体の発見と改良の目標1957年(昭和31年)、商業学校出身で育種に関して素人同然の山本二郎は本格的に育種改良に着手しました。しかし、始めてすぐに彼の前には難題が山積となりました。当時の洋ランは、そのほとんどが趣味者の対象として扱われ、コンテスト入賞の条件となる花型と色彩だけが重要視されていましたが、洋ランを花き産業として発展させるには、それ以外に草姿、花保ち、輸送に耐える花梗の丈夫さ、色彩の変化など数多くの改良が必要なことに気づきました。 |
洋ラン業界から冷遇されていた山本二郎でしたが、育種を志してから7年後の1964 年 (昭和39年) 東京で開催された全日本洋蘭協会、日本蘭業組合主催の洋らん展において、ゴールデンウェーブNo.1が最高賞である農林大臣賞を受賞しました。これを受けても国内での評価はなかなか定まりませんでした。
しかしながら 「より美しい花を、より安く」をモットーに研究と努力を重ね、この頃までに既に20万株を超える実生苗を咲かせ、各地で驚くほどの高確率で優秀花を続出。花き業界や愛好家のデンドロビュームに対する概念を徐々に変えてきたことには確かな手ごたえを感じていました。
1969 年 (昭和44年)、山本二郎は当時、世界で最も権威あるとされていた、英国王立園芸協会(R.H.S)の展示会に出品することを思い立ちます。自ら作出したデンドロビュームの切り花を箱に詰めて、意気揚々とイギリスに降り立った彼は、ロンドンヴィンセントスクウェアの会場の豪華な雰囲気とその規模に圧倒され、一転して自らの無知を恥じるような気になったといいます。当時の日本での展示は、銀座の老舗デパートにおける展示会であっても、ただ、棚の上に並べるだけでしたが、イギリスの会場では、熱帯植物の間に鉢を見せないように自然に植え込むという、今でこそ国内でも一般的になりつつありますが、当時の山本二郎には想像もつかないような展示準備が進められていたのでした。場違いな自分に気づき出品をあきらめ、会場内を見学していた時、あるイギリス人が山本二郎の手にした荷物に目を留め、彼の辞退にもかかわらず、はるばる日本から来たのだからと、親切に花瓶を用意し会場の片隅に場所を作ってくれたのです。そして、審査結果の発表の日、思いもかけない結果が待っていました。全世界の有名ラン園が自信作を持ち寄った約5000点の出品物から選出された、5点の入賞花のうちの何と2点が彼の作品だったのです。切り花というハンディがありながらも、なお認めるに値するという素晴らしい評価が下されたのでした。
これは日本人初の快挙でもありました。やがて、このニュースが国内にも伝わると、その後の彼に対する扱いが手のひらを返したように変わったといいます。
(※写真:英国王立園芸協会(R.H.S)にて受賞の賞状を手に帰国後自宅にて撮影。)
(※写真:英国王立園芸協会(R.H.S)にて受賞のメダル。)
父から認められて
1974 年 (昭和49年)、山本二郎の洋ランの育種生産活動が高く評価され全国農業コンクールで農林大臣賞を受賞。 同じ年、日本農林漁業祭において農業コンクールの最高峰である「天皇杯」を受賞し、皇居にて、昭和天皇に拝謁の栄を賜りました。この当時、野菜や果実等の数多い生産業界の中で洋ラン栽培家が農業界最高の賞である天皇杯を受賞したことは大変意義深いものでした。
このように国内、海外からは十分すぎる賞賛と栄誉を送られた山本二郎でしたが、デンドロビューム栽培を始めた当初から父親がかなり反対したこともあり、山本二郎と父、重太郎との間にあまり会話はありませんでした。
1969 年 (昭和44年) 権威ある英国王立園芸協会(R.H.S)の展示会で入賞したときもあまり喜んだふうもありませんでした。帰国して、持ち帰った賞状を見せても、英語の横文字ということもあり反応は今ひとつでした。ところが、日本農林漁業祭において天皇杯を受賞し、菊の紋章のついたトロフィーをみた時にはさすがに嬉しかったようで、親戚がお祝いに駆けつけて来てくれた時、本当に嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして息子二郎の偉業を心から称えよろこんでいたといいます。約20年もの長い間の息子の人並みならぬ努力の様は父親として既に認めていたに違いありません。山本二郎本人にとっても父親に認めてもらえたことが数々のメダルや賞状よりも嬉しかったはずです。
(※写真:日本農林漁業祭の式典で受賞者を代表して壇上で挨拶。明治神宮会館にて)
東洋のマジシャン
育種目標として花付きの次に、課題として着目したのが咲き方でした。山本二郎が改良に着手した頃の大輪系は、花梗が細長く、やや垂れ気味に咲くものが多かったのです。このため、せっかく立派な花を咲かせても、正面から観賞すると花の顔がよく見えませんでした。これを改めるには、まず花梗を太く丈夫にして、しかも上向きに咲くようにしなければと考え、この改良にも10年近い歳月を要しました。
次に考えついたのが、1方向に向いて咲く品種でした。このころのデンドロビュームの着花は、茎の左右に花梗が交互に出て、振り分け咲きとなるものが通常でした。そのため、出荷に際して、化粧鉢に3~4株くらい寄せ植えすると、花の半数は内側に向いて咲くことになります。それでは、たとえ1鉢に50輪咲いていたとしても、実際に観賞できるのは25輪になってしまいます。この間題を解決するために数多くの交配を重ね、遂に1方向咲きの品種の作出に成功しました。交配を手がけてから、実に25年目でありました。
この新品種の出現で、デンドロビュームの観賞価値は倍加されました。最初に発表したラブリーバージン・エンゼルは、典型的な1方向咲きで、多く人々を驚かせました。欧米諸国の人々の中には、太陽光線の方に向いて咲くのではないかと真顔で言った人もいました。太陽光線には関係ないことをずいぶん説明したといいます。よほど驚異だったと見えて、その後、彼らにMr.Yamamotoは「東洋のマジシャン」だとニックネームをつけられることにもなりました。
この段階で、花付きはよくなり、花梗も丈夫で正面に向いて咲くようになり、しかも全部の花が1方向を向いて咲くようになりました。これで一応の問題点は解決できたかに見えました。しかしまだ問題は残っていました。
(※写真:AOS(アメリカ蘭協会)の審査員との記念撮影に気さくに応じる様子。)
より長く楽しむために
デンドロビュームは、改良の甲斐もあり豪華で美しい洋ランとしての地位を築きました。その改良には長い期間とコストが生じます。そのため一般の草花に比べると、価格も総じて高価です。山本二郎はその価格に対して、消費者の皆さんに納得していただける裏付けがもう少し必要であると考えたのです。それは、花保ちの問題です。せっかく高価な鉢花を購入していただいても、10日や半月で枯れてしまうようでは、納得してもらえません。花保ちの問題を克服するためには弁質の改良をはかり、せめて1ケ月以上、できれば2ケ月間くらいは咲き続ける品種を作出する必要があったのです。そこで失敗を繰り返しながら、徐々に改良を行ない、ついに現在のように2ヶ月以上、時には3ヶ月以上も咲き続ける新品種を作出することに成功しました。
こんなエピソードがあります。花保ちの改良に成功はしたものの白花系だけはなかなか思うように花保ちが改善されなかったため、これまでの経験と高度の技術を駆使し、紅紫花とピンク花の交配によって、花保ちの良い白花を作出しようと考え、交配作業をしていたときのことです。交配作業を見守っていたある研修生が「先生、そのような交配をすると、さぞや紅紫の立派な大輪 花が咲くのでしょうね」と言うのです。白花を作りたいと思って交配しているのだと説明すると、その研修生は「先生、冗談でしょう」と信用しません。その研修生が研修を終え、ふる里の熊本に帰郷することになった時山本二郎はこの実生苗を 数株プレゼントすることにしました。
それから2年目。元研修生から報告がありました。先生の言われた通り、白花の大輪花が咲いた、と。 この品種はホワイトポニーと名づけて、英国王立 園芸協会に国際登録しましたが、優良固体の固体名は彼の名前をとってアカマツとしました。この白花は、花保ちが極めて良いのが特徴でした。後にアメリカ蘭協会(AOS)の品評会にて入賞したDen.White Pony 'Akamatsu' AM/AOSです。
(※写真:次世代の新品種を作出すべく交配作業をする様子。)
世界中で親しまれる彼の作品
デンドロ好きなら世界中で知らない人はいないであろうユキダルマ‘キング’AM/AOSは1970年代のベストセラー品種でありました。いまだ世界中で数多く栽培されており白花の代表種といえます。赤系ではユートピア‘メッセンジャー’ FCC/WOCやラブリーバージン‘エンゼル’、サンパウロ‘メモリー’、黄色系ではゴールデンブロッサムやピッテロゴールドなど数え上げるときりがありません。
もともとデンドロビュームを含めた洋ランは欧米諸国において育種改良され、わが国に輸入されたのが始まりでした。洋ラン界においては欧米諸国が先進国であった時代から今や日本の育種技術は急速に進歩し、特に山本二郎が携わったノビル系デンドロビュームついては世界の最高水準に達しました。1980年代以降になってからはアメリカやヨーロッパで普及している優良品種の90%が山本二郎によって作出された品種だったのです。そして欧米の洋ラン界においてはついには「Yamamoto Type(ヤマモトタイプ」、「Yamamoto Dendrobium(ヤマモトデンドロビューム)」という名称で、ひとつの独立したランのグループであるかのごとく呼ばれるまでに至りました。
日本から遠く離れた異国の地で花屋の店先に自身の作出したデンドロビュームを見かけた時や、日本生まれのデンドロビュームをそのままの名前でユキダルマ、カグヤヒメ、ホシムスメなどと呼んでいるのを耳にしたとき、日本で生まれた新しいデンドロビュームが世界中にわたり多くの愛好家に親しまれていることを実感しました。
(※写真:山本デンドロビューム園を訪れた外国からのお客様と自宅前で記念撮影。)
(※写真:日本農林漁業祭で拝受した天皇杯と当時の皇太子殿下〔現上皇陛下)にご説明申し上げる山本二郎。)
洋ランの大衆化へ向けて
専門家を凌ぐ研究の末に フランスのMorelの研究をきっかけに開発された生長点培養によるクローン植物の大量増殖法は,洋ランの分野において急速に普及しました。最初、1960年代の初期にフランスの洋ラン生産業者によってシンビジウムのメリクロン生産が実用化されて以来,カトレア,ファレノプシス系デンドロビューム,バンダ等多くの種属が組織培養できるようになりました。しかし一部には研究は行われたが,容易に実用化されない属もあったのです。例えばノビル系デンドロビュームやパフイオペディルムなどは,長期間にわたりどこの研究機関でもその成功例がなく、組織培養が困難とされていたのです。 |
世界市場を開拓 すでに1960年後半からアメリカ、ヨーロッパやオーストラリア、メキシコ、アルゼンチン、ブラジルなど海外へ向けてデンドロビュームの実生苗の出荷を行ってはいたが、切花や実生苗の出荷では彼が理想として抱いたような世界規模での高品質なデンドロビュームの生産には程遠かった。ところがメリクロン培養に成功し、大量生産への道筋が開けた事をきっかけにデンドロビュームの国際市場の流れは大きく変わり始めました。
|
(※写真:タイ農場で増殖されるフラスコ苗と優良品種の苗が大量生産されていく。) |
育種家としてのあくなき情熱
終わりなき育種人生 デンドロビュームは今や園芸作物として花き産業の中で立派な地位を築いています。これは山本二郎によってデンドロビュームを園芸作物として確立すべく、高い育種目標と妥協なき厳しい品種選抜で商品性を追求してきた結果に他なりません。 |
(※写真:「勲五等双光旭日章」の賞状と勲章。いまなお美しい花への情熱を絶やさない山本二郎。) この記事は2010年に作成したものです。資料が古い場合があります。 |